和歌劇作品紹介
[第一部]
今から千三百年あまり前、倭国と呼ばれていた日本の首都 アスカの宮に、額田姫という優れた和歌の歌い手がいた。
或る秋の日、額田姫は、農作物の稔りを神に感謝する儀式を行っていた 先の大王の弟・大海人皇子と知り合った。皇子が、理想郷・吉野の山と繁栄を象徴する馬酔木の歌を詠んで姫に贈ると、二人は結ばれ、やがて二人の間には、十市皇女が生まれた。
その頃、朝鮮半島の百済の国は倭国の友邦であったが、隣国の新羅と唐の国から攻められて窮地に陥っていた。百済の国王は倭国に支援を求め、王子の豊璋を人質としてアスカの大王の許に送り込むと、大王は朝鮮半島への出兵を決め、その指揮を執るために難波の港から筑紫に向かって出航した。
それに際し、アスカの大王は 各地を治める有力者たちに出兵を要請した。摂津の国を治める 中津大兄君も、二万人の兵士(防人)を集めて参集し、播磨国の印南野に停泊していた アスカの大王に謁見したが、中津大兄君は そこに居合わせた額田姫に一目惚れし、出兵の見返りに、額田姫を自らのものにしたいと申し出た。そして、中津大兄君の協力を得たかった アスカの大王は、その要求を受け入れた。
アスカの大王が筑紫に着くと、各地から集まった防人たちは次々に、家族に別れを告げて朝鮮半島の戦地に向かって出航して行った。しかし、倭国の軍勢は、百済の首都への入り口・白村江で唐の水軍との戦いに敗れ、数万人の防人が海の藻屑と消えてしまった。その悲報を聞いて、額田姫は、残された家族に向かって鎮魂の歌を歌った。
その後、中津大兄君を始め、倭国の主だった人たちは、敵の侵攻を避けるために近江の国に向かったが、額田姫は、故郷の三輪山に別れを告げた。
[第二部]
中津大兄君は、白村江での敗戦によって権威を失ったアスカの大王に代って、新しい国・日本を組織し、近江の大津の宮で、大王(天智天皇)に即位した。中津大兄君は、唐や新羅の国と講和し、漢方医学や漢詩など唐の文化を取り入れた。大海人皇子は、もはや自分の役割は終わったと考え、或る宴席で、日本の伝統を守ることの重要性を歌で説いた後、吉野の里に隠居した。
しかしその二年後、中津大兄君が突然の病に倒れると、かつて倭国の大王を支えてきた大伴氏などの古い氏族は、倭国の王族であった大海人皇子を主と仰いで兵を挙げ、近江の勢力を滅ぼし、大海人皇子は飛鳥御浄原の宮で、大王の位に就いた。再び大海人皇子の后となった額田姫は、まな娘の十市皇女に先立たれたが、孫の葛野皇子に、古くから伝わる和歌によって日本の伝統を伝えようとした。
その七十年後、葛野皇子の孫・淡海三船は、その歴史を後世に伝えるため、近江の大津の宮の時代以後の漢詩を集めて本にまとめる事業を始めたが、それに反対する大伴家持は、因幡国に左遷された。しかし、古から伝わる日本の伝統を語り継いでもらうため、家持は赴任先で、古くから伝わる和歌に自らの家が保存していた防人たちの歌と自身の和歌を併せて万葉集を編集した。