和歌劇作品紹介
今から千三百年前あまり前、奈良に都があった頃の話。
日本の国には遠い昔から、和歌を作る伝統があったが、この奈良の帝(天皇)の時代に、広く国民の間に和歌を作る習慣が広がり、また、帝や人麻呂の臣など、優れた和歌を詠む人が現れた。
春・三月三日、帝の宮殿で、春の訪れを祝う曲水の宴があり、池の周りに座った参加者が、池に浮かべた酒の杯を前にして、歌を詠んでいた。その儀式に参加していた常陸の采女は、自らの出身地・常陸の国には、筑波山という守り神がいるが、奈良の帝はそれ以上の存在であるという歌を詠むと、帝は常陸の采女が気に入り、毎夜の様に彼女の部屋を訪れる様になった。
秋・中秋の名月、人々は、畑の作物の稔りを月の神に捧げ、その神の力によって長寿を得ることを願う儀式を行った。常陸の采女は、もう何ヶ月もの間帝のお召しがないことが気掛かりなので、つい、月に寄せて自らの想いを表す歌を詠んでしまうが、一方、駿河の采女は、月の神に帝の長寿を願う歌を歌う。その高い声に惹かれた帝は、毎晩の様に駿河の采女の部屋を訪れる様になった。
このことを知った常陸の采女は、これが采女の宿命であることは分かっていたが、徐々に彼女の心は、帝の寵愛を受けたいが受けられないという考えから離れられなくなり、また、自分は故郷から離れて孤独だと感じた。そして、冬の始まり・神無月に入ったある日、常陸の采女は、帝の宮殿の近くにある猿沢の池に身を投げ、帰らぬ人となった。帝は知らせを聞いて猿沢の池に駆けつけると、彼女が哀れだと感じて歌を詠んだ。
今から千三百年前あまり前、奈良に都があった頃、数十年に渡った戦乱の時代が終わり、日本も その周囲の国も平和な時代となり、国中の人が和歌を詠む様になりました。そして優れた歌を詠む人も現 れ、その一人・奈良の帝は、秋の紅葉が川に流れる様を錦だと詠み、また、風で枯れ葉が鳴る音を自らの 宮殿の名前にしていました(奈良の宮=鳴るの宮)。
帝の後宮には、日本各地の有力者が送り込んだ女性・采女がいました。彼女たちは、自らの出身地の特 徴や伝説を和歌として覚えていて、宮殿の行事の際には、それを披露していました。その中の一人、常陸 の国から来た采女は、或る儀式の席で、常陸の国の守り神である筑波山を題材にして帝を称える歌を歌うことにより、帝の寵愛を得ることに成功しました。
しかし、別な儀式の場で、駿河から来た采女が、天女 の伝説を題材にした和歌を高い声で歌うと、それに興味を抱いた帝は、駿河の采女の処で夜を過ごす様に なりました。
常陸の采女は、それが采女の宿命とはいえ、帝の寵愛を失ったことを思い悩み、また、故郷から離れた 孤独を感じ、遂に、帝の宮殿の近くにある猿沢の池に身を投げて帰らぬ人となってしまいました。知らせ を受けて そこに駆けつけた帝は、常陸の采女が哀れに感じて歌を詠みました。
その後何ヶ月間も、常陸の采女の事件が忘れられなかった帝は、国人 一人一人の魂を未来に続くよう にするため、その歌を記録として未来に残すことを決意しました。
臣下に命じて、これまで歌い継いでき た和歌と、国人の和歌を全て記録させ、「万葉集」という名を付けたのです。