歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.27 高森勝子

医療の変革期に、現場に立ち看護職の確立に努めて来られた、(社)大阪看護協会の高森会長にお話をお伺いしました。

■ナイチンゲール考

歌枕直美(以下歌枕) 今年5月「看護の日」の行事で演奏させていただき、大変光栄に思っております。

高森(以下高森) 奈良での日本看護学会で、はじめて歌枕さんの歌を聴かせていただいて、こういう音楽があったのかと感激でした。ぜひ、皆さんに聴いてほしいと思い、実現し喜んでいます。好評でしたよ。

歌枕 ありがとうございます。この5月12日に行事があるのは、理由があるのでしょうか。

高森 ナイチンゲールのお誕生日が「看護の日」となっており、毎年行事をおこなっています。ナイチンゲールは、看護を職業として認めさせた人なんです。

歌枕 「奉仕の精神ナイチンゲール」との認識しかありませんでした。

高森 近代看護学普及に努めた方で、感染などのデーターをとり、看護、衛生について統計化し国を動かした方です。例えば、ベットとベットの間隔を広げたりして、環境を整えることなどですね。

歌枕 感覚でなく、きちんと数字をとりデーター化。一番クリアですよね。そして国を動かす、素晴らしい人ですね。

高森 はい。奉仕の精神はもちろん大切ですが、看護も職業です。

歌枕 プロとしての精神が重要ですね。

■変革の時代

歌枕 ご卒業後はどうなされたのですか。

高森 豊中病院に39年間勤務しました。

歌枕 その年月の中で何が変わりましたか。

高森 病院の規模等ベッド数が拡大していった時期で、人手も足りなくて、看護の仕事だけでなく、診療報酬請求や空き部屋の掃除等何でもしなければならない時代でした。でも、幾多の変還を経て、医療技術も進歩し、診療情報の提供や診療ガイドラインも整備されてきましたが、私の現役時代は、戦いの日々でした。

歌枕 変革の時代だったのですね。その中、結婚生活と両立されるのは、大変なことだったのではないでしょうか。

高森 はい。大変でしたね。その時々にいろんな方に、助けていただきました。子供が小学校の時に担任の先生から「お宅は父子家庭かと思っていました。」と言われたこともありました。(笑)

歌枕 女性が社会で働くと言うことは、やはり大変ですね。ところで、看護の現場から看護協会会長のお仕事に変わられていかがでしたでしょうか。

高森 専務として入った7年前、ちょうど看護会館を建てるという時期で、土地のことから資金の調達など大変な時でした。

歌枕 やはり切り開きの時に、選ばれてしまうのですね。(笑)

■看護協会とは

高森 看護協会の仕事は、職能団体として「府民の健康と福祉の向上に寄与する」ことです。

歌枕 具体的な内容はどのようなことなのでしょうか。

高森 例えば、まちの保健室や訪問看護などを行っています。また最近では、深夜の救急医療相談を看護協会が担当することに成りました。一晩70件ぐらいの相談があり、90%の方に納得していただいています。

歌枕 重要な隙間を埋めるお仕事ですが、看護という職業の認知度は変わってこられましたか。

高森 はい。看護のレベルも上がり、ようやく社会に認知していただけるようになりました。これからは、高齢化社会の中でますます看護を必要とする時代ですから、4年制の看護大学卒業生も増えていく中で、社会の要請に応えられる看護職として成長を続けてほしいと期待しております。

歌枕 希望があっていいお話ですね。高森会長は、日本での看護の分野を育ててこられた先駆者ですね。同じ女性として、勇気づけられました。本日は、ありがとうございました。

高森 勝子 (たかもり かつこ)

1956年3月熊本県立水俣高等学校普通科卒業

1959年3月兵庫県立神戸医科大学付属高等看護学院卒業

1959年4月市立豊中病院就職

1959年9月副主任、1960年4月主任、1996年婦長

1970年4月副総看護婦長、1977年6月総看護婦長、看護部長

1998年3月定年退職

「看護協会役員歴」

大阪府看護協会地区理事2年・看護師職能理事6年

日本看護協会地区理事・推薦委員2年

1998年大阪府看護協会専務理事を経て、 2000年より会長

2005年より日本看護協会理事