歌枕直美 友の会

うたまくら草子
歌枕直美の心から語りたい
vol.90 楯川修二

 
 
イベント企画・制作などを中心に多岐に活躍、近年は歴史物語を創作執筆しておられる楯川さんにお話を伺いました。
 
 

イベント制作の世界へ
 
歌枕直美(以下、歌枕)
五月萬福寺での「ワクムスビ」公演にお越しいただき、ありがとうございました。
 
楯川修二(以下、楯川)
歌枕さんの公演は毎年、楽しみにしており、物語が一直線にスッと自分の中に入ってきます。
 
歌枕:とても嬉しいことです。楯川さんはイベント制作会社をされていますが、元々、どういうところから今のお仕事につかれたのですか。
 
楯川:大学時代は水産を専門に勉強をしていて、屋久島の横にあるがフィールドで、潜りを専門にトラギスやエソを研究していました。
 
歌枕:どうして水産に進もうと思われたのですか。
 
楯川:友人の薦めがあり、また受験の時に大学の資料を見た際に実習で南氷洋に行けると書いてあり、興味を持ちました。
 
歌枕:なかなかない着眼点ですね。実際に学校に入ってからはいかがでしたか。
 
楯川:面白い先生がたくさんおられました。また水産学科の先輩には近大マグロの養殖に成功した先生もおります。実習船で日本一周をした際には、その先生がマグロの養殖に成功する前の実験施設も見学しました。
 
歌枕:先見の明をお持ちの先生だったのですね。
 
楯川:だと思いますが、学生たちには「船の免許を取って、マグロに餌をやってくれたら卒業さしてやる!」というような先生で、研究室の方たちは真っ黒になりながら、餌をあげていました。
 
歌枕:そのような水産の世界から何がきっかけで広告の世界に進まれたのですか。
 
楯川:水産科の人は魚が大好きで、ずっと魚に関わっていたいので、公務員になって県の水産課などに進む人が多かったですね。しかし、公務員のような仕事は自分の肌に合ってないと思い、広告の世界でコピーライターを目指しました。
 
歌枕:この当時、注目されていた職業ですね。
 
楯川:コピーライターならフリーで働けるし、自分の脚でしっかり立って生きていけると考えました。
 
歌枕:はじめからお一人でされていたのですか。
 
楯川:大学卒業後は二年程、広告代理店に勤めました。この時代、コネがないと広告関係の会社に就職できないというのがあからさまにありましたが、たまたま、就職することができました。いまだにどこが気に入られたか分かりませんが…。(笑)
 
歌枕:コピーライターから、いつ頃、現在のようなイベント関係のお仕事に携わるようになったのですか。
 
楯川:独立してなかなか食べていけなかったのですが、その頃に花博の準備が始まりました。花博には催事センターがあり、管理部門に携わるようになって、この時からイベントの仕事にシフトしました。
 
歌枕:新しい流れになったのですね。
 
楯川:イベントって楽しいですよね。花博のような大きなイベントに関わっていると「イベント=お祭り騒ぎ」なので、この流れで会社を立ち上げられるのでないかと勘違いしてしまいます。実際に別のチームは十人ぐらい集まって会社を設立しました。
 
歌枕:そのチームには入ろうとは思われませんでしたか。
 
楯川:自分はもうすでに個人で仕事をしていたので、そこまで積極的ではありませんでした。たまたま別の会社の人が僕を含めて四人で会社を作ると言い出しました。
 
歌枕:どういう方が中心で会社を作られたのですか。
 
楯川:とても面白い方なのですが、仕事で関わらなければ…という条件付きなので、なかなか大変でした。(笑)
 
歌枕:何か起きたのでしょうか。
 
楯川:この方を経由して某放送局関連会社から仕事をもらっていたのですが、ある時、『彼と私と二人の話が違うので説明しに来なさい』とクライアントから言われ、説明に行きました。ところが、彼の方が来ず、仕事から身を引いたので、そこからたくさんの仕事をもらえるようになりました。
 
歌枕:運を握られたのですね。
 
楯川:自分は普通にしていたので、それ以降、自然体でイベント会社をできるきっかけになりましたね。
 
拳究会(けんきゅうかい)谷町
  
歌枕:楯川さんはこのオフィスで武道も教えられているようですが、どのようなきっかけですか。
 
楯川:このまま仕事漬けだと体を壊しそうなので、会社の近くにある少林寺拳法の道場に通い始めました。大学時代にもやっていたので始めやすかったのです。
 
歌枕:そこから現在の武道の流派にはどのようなきっかけで、辿り着かれたのですか。
 
楯川:ある時期に、少林寺拳法の運営方針と考えが合わず、少林寺拳法から飛び出しました。現在は別の流派の先生の技を引き継いでやっています。
 
歌枕:大切にされている教えはありますか。
 
楯川:武道には難しい言葉で精神性を説いた言葉が多くありますが、それは子供たちには理解しにくいです。
 
歌枕:確かに、せっかくの良い言葉も意味が伝わらなければ、大切な思いや、メッセージが伝わりませんね。
 
楯川:なので、子供たちには「アホでも素直が一番!」と大きな声で言うようにしています。
 
歌枕:大事なことです。(笑)
 
楯川:ちなみにそのあとに小さい声で「でもアホより賢いほうがいい」と少し付け加えます。(笑)
 
歌枕:子供にも核心が伝わる言葉ですね。
 
楯川:武道をやることで、実際の技術だけを身につけるだけでなく、自分の脚で立って、自分だけでなく大切な人、仲間を守れる、その心と体のバランスが大事だと感じます。
 
歌枕:力があっても人を思いやることができなければ、本当の強さにはならないと思います。
 
楯川:いつも自分の中で円を描き、それを半分に分けて、自分と他人とどの程度の比重かを考えるようにしています。
 
歌枕:きれいに半々のバランスを取れるものなのでしょうか。
 
楯川:これが実はなかなか難しいものなのです。
 
歌枕:武道は技術的なところだけでなく、心とも本当に繋がっているのだなと感じます。
 
楯川:自分の中でバランスよくできていると思っていても、ちゃんとできていないことの方がうんと多いわけです。自分の体≠心になってしまいます。心と体が一緒になれることが理想です。
 
 
執筆活動
 
歌枕:何がきっかけで歴史物語を書こうと思われたのですか。
 
楯川:以前から武道と歴史をテーマにしたら何か書けるのではないかと思い、コロナ期をきっかけに、まずは野見宿禰から書き始めました。
 
歌枕:野見宿禰は日本書紀などに登場しますね。
 
楯川:野見宿禰は当麻蹴速と相撲で対戦しましたが、この対戦はあくまでも自分の空想の考えですが、北の武術と南の武術がぶつかり合ったのではないかと考えました。
 
歌枕:日本書紀の文章だけで読むととても短いですが、とても立体感のあるお話ですね。
 
楯川:天皇の御前で戦ったことが、なぜ国史に記録されたのかという疑問から「天皇側の人間」と「統制される側の人間」が描かれているのではないかと思い、執筆しました。
 
歌枕:とても興味深いです。
 
楯川:これらの本を書く上で心掛けているのは、クスッと笑え、歴史上の有名人のそばにいたであろう人にもスポットライトをあてていることです。一般の方にも読みやすいように書いているつもりです。
 
歌枕:着眼点がとても分かりやすく、伝わります。これまで何巻にわたり書かれているのですか。
 
楯川:上下巻のものもありますが、現在七巻まで書きました。今の構想では全十巻まで書く予定です。
 
歌枕:書く時代は決まっているのでしょうか。
 
楯川:古代だけでなく、江戸時代、幕末のことも書きたいと考えています。
 
歌枕:お仕事をされながらの時間づくりは大変ではないでしょうか。
 
楯川:コロナ期に仕事がバタッと減ったのですが、忙し過ぎず丁度よいバランスになりまして、以前から書きたいと思っていたものを執筆する時間が取れるようになりました。
 
歌枕:コロナが味方になったのですね。ぜひ最後まで書き上げてください。期待しています。
 
楯川:歌枕さんは歴史的な建物でコンサートをされていますが、建物やその場の雰囲気を自分のものにされていくことは本当に凄いことだと思います。
 
歌枕とても励みになるお言葉をありがとうございます。今後とも見守っていただけると嬉しいです。本日は貴重なお話をありがとうございました。
 
 

楯川修二(たてかわしゅうじ)

1959年神戸生まれ。広島大学生物生産学部水産学科を卒業後、広告プロダクションにSP・広告プランナーとして入社。2年で退社し、財界新聞社に入社、企画・イベント制作などを担当。1988年にフリーランス。1990年「国際花と緑の博覧会/地方公共団体の日」担当後、1992年には()シナジープロジェクトを設立。皇室行啓行事、マスコミ連動型イベント、博覧会・テーマパーク他多数のイベント・番組などの企画・制作・演出・プロデュースを行う。2001年にはイベント・番組等を総合的に企画制作できるプロダクションとして(株)シナジーに組織変更。現在はペンネーム「盾のまま」として、仕事に加え、武道で歴史を掘るをテーマに小説を執筆中。

 

歌枕直美の心から語りたい
vol.89 松尾法道

 
 
日本最古の唐寺で黄檗宗発祥の地である長崎・興福寺のご住職である松尾法道師にお話を伺いました。
 
 

黄檗宗
 
歌枕直美(以下、歌枕):大変ご無沙汰しております。今回、このようにお会いでき、とても嬉しく思います。
 
松尾法道(以下、松尾):こちらこそ、ご無沙汰しておりました。久しぶりにお会いした気がしないですね。
 
歌枕:ありがとうございます。興福寺には2000年の「みやびうたコンサート」、2001年の「カエリー リリース記念コンサート」でお世話になってから、約25年ぶりに訪れさせていただきました。
 
松尾:あの時の歌枕さんのコンサートを今でも「とても良かった、印象的だった」と、当時お越しくださった檀家さんがいまだにおっしゃってくださっています。
 
歌枕:とても嬉しいです。昨年、興福寺のご本山である萬福寺で公演させていただきました。改めて、黄檗宗のあり方がこれまで知っている日本の仏教とは違うと感じました。
 
松尾:黄檗宗は江戸時代のはじめに隠元禅師が開祖した宗派ですが、お経は音楽のような太鼓や鐘などの鳴り物を使います。
 
歌枕:まるで歌っているような印象があります。
 
松尾:お堂は説法が響くように天上が高く、床は石畳になっています。
 
歌枕:昨年、萬福寺の法堂で公演をさせていただいた際に、その響きを体感いたしました。興福寺と萬福寺は同じ宗派でも違いのようなものはあるのでしょうか。
 
松尾:長崎の唐寺は媽祖信仰があります。媽祖は航海の神様で、中国から日本へ航海する際に船に乗せて、日本に着くと唐寺に預けます。
 
歌枕:長崎の唐寺と、中国との密接な関係を感じます。
 
松尾:境内に五色の吹き流しがかかっていますが、これは中国から船が来る時の合図で、長崎だけの文化です。
 
歌枕:中国との繋がりを感じます。この数年で黄檗宗と中国の関係を多く知ることができました。
 
松尾:ちょうど14年前に九州国立博物館で、黄檗展を2カ月間開催させていただきました。開幕が東日本大震災の3日後で、当時の館長さんは中止した方がよいと考えていたのですが、ちょうど中国での国際会議に参加しており、海外の博物館の館長さんが「こういう時こそ人心が不安になるからやりなさい。人の心を和ませることができるのは芸術、文化なのですよ。」とおっしゃってくださいました。
 
歌枕:素晴らしいお言葉です。
 
松尾:しかし、私はこの展覧会の実行委員長でしたので、毎日来館者人数を聞いておりましたので、大変なことではありました。
 
歌枕:観光客が少なかったということでしょうか。
 
松尾:太宰府天満宮の参道の人通りがゼロになるという、歴史始まって以来のことが起こりました。
 
歌枕:そのような大変なことになっていたのですね。
 
松尾:この展覧会では本山より隠元禅師の像を運び入れ、毎日、近隣の若い僧侶の方がお参りに行ってくれました。私も週に4~5日は足を運びました。
 
歌枕:展覧会を開くのは、非常に大きな労力がかかったと思います。
 
松尾:このように博物館に持ち込むことで、博物館で再度、宝物を調べ直してくれ、また掛け軸に虫食いがある時は修復してくれ、お釈迦様の金箔が少しはがれている際は抑えてくれるなどのちょっとした応急処置的な修復をしてくれます。
 
歌枕:ただ博物館で陳列するだけでなく、宝物を守っていくことにも繋がっていくのですね。
 
松尾:継承をしながら、黄檗宗は世界を繋いでいくのだと感じます。
 
 
人生の経験
 
歌枕:お寺を継ぐことには抵抗はありませんでしたでしょうか。
 
松尾:両親は好きなことをさせてくれ、声楽の道に進もうと聴音やコールユーブンゲンなどの音楽の専門的なことを学びました。
 
歌枕:音楽の道を志され、そこからどのようなことがきっかけで住職を継がれたのですか。
 
松尾:20歳の時に先代が亡くなり、寺に戻ってきてすぐの24歳の時に跡を継ぎました。
 
歌枕:とても若くして継がれたのですね。女子高校の先生もされていたとお聞きしたのですが、いかがでしたでしょうか。
 
松尾:社会科の教員ですので、地学、倫理社会、世界史などの教員資格を持っており、特に地学が得意だったのですが、倫理社会の担当になり、そこから猛勉強して教えていました。
 
歌枕:高校の先生はいかがでしたでしょうか。
 
松尾:寺のこともあったため、非常勤として勤めていましたが、1クラス62名の12クラスのうち、10クラスを担当していました。
 
歌枕:お忙しくはありませんでしたか。
 
松尾:午前中はぶっ通しで授業し、午後からは寺に帰って、寺の仕事をしていたのでそれは大変でした。
 
歌枕:しかし、学生さんからは親しまれたのではないでしょうか。
 
松尾:非常勤だったため、担任をもっていませんでしたが、誕生日になるとプレゼントをたくさんもらい、いまだに誕生日になると電話をくれる子もいます。
 
歌枕:人気の先生だったのですね。
 
松尾:女子高生との話題作りのために、当時のアイドルを知りや漫画も読んだりしました。
 
歌枕:楽しい経験をされたのですね。
 
松尾:あとは今から約20年ほど前に、事故で怪我をして、頚椎を痛めてしまったことも人生の節目になりました。
 
歌枕:そんな大きな事故があったとは、存じ上げませんでした。
 
松尾:救急病院に運ばれ、首から下が動かない状態でしたが、口は元気でした(笑)。
 
歌枕:神妙な雰囲気を打ち消されていたのですね(笑)。
 
松尾:闘病中は1つ問題をクリアすると、また新たな問題が見えてくる。それの繰り返しで、体が動かないところから1つずつ乗り越えていきました。
 
歌枕:とても分かります。私も病気で倒れた際、当たり前だったことができなくなり、どうやったらできるようになるかを考えて、1つずつ問題を乗り越えてきました。
 
松尾:今も右側は緊張などすると動きにくいということはありますが、日常は大きな不自由なく生活できるようになりました。
 
歌枕:本当によかったです。
 
松尾:寺を早くに継いだこと、教師をしたこと、事故を経験したこと全ての経験で今の自分があるのだと思います。
 
長崎の文化
 
歌枕:長崎の街へ久々に訪れましたが、本当に中国との繋がりが深く、また物事の視点が日本国内だけなく海外に向いていると感じました。
 
松尾:長崎には「おくんち」というお祭りが毎年10月7日から3日間開催されます。長崎の氏神様である諏訪神社の秋季大祭で、長崎の町を挙げて催されます。
 
歌枕:どのようなお祭りなのでしょうか。
 
松尾:奉納踊があり、また庭見せというものがあります。これは窓や扉、襖なども取り外し、表通りから家の中が見えるようにして、奉納で身に着ける衣装や道具、御花などのお祝いを品を飾るのですが、実はこの家の中を見せるというのは、キリシタンではないことを示したとも言われています。
 
歌枕:とても象徴的ですね。
 
松尾:奉納踊があり、また庭見せというものがあります。これは窓や扉、襖なども取り外し、表通りから家の中が見えるようにして、奉納で身に着ける衣装や道具、御花などのお祝いを品を飾るのですが、実はこの家の中を見せるというのは、キリシタンではないことを示したとも言われています。
 
歌枕:興味深いですね。
 
松尾:キリシタンと幕府が衝突したことでも有名な島原の乱では、一説によると島原の人は誰も生き残りがおらず、四国からの移民が今の島原の方のルーツではないかともいわれています。
 
歌枕:普通で知ることのない裏の日本の歴史ですね。
 
松尾:このようにキリシタン、オランダとも繋がりがありますが、やはり長崎は中国との繋がりが深く、中国の代わりの土地と言っても過言ではありません。
 
歌枕:街並みからも感じられます。
 
松尾:5月には今年も本山の萬福寺で公演をされるのですね。
 
歌枕:今年も昨年の10月に国宝指定された法堂で公演をさせていただきます。
 
松尾:唐寺のお堂は声がよく響き、ホールの代わりにもなります。またお寺というのは人々が集い、エンターテイメントの発信地でもあります。
 
歌枕:音楽だけでなく、美術的な面でも非常に感じます。
 
松尾:長崎はコンサートホールがなく、生の音楽を聴く機会がありませんので、ぜひまた歌枕さんの歌声を長崎の皆様にお届けいただけたら嬉しいです。
 
歌枕:今年10月には「美し いにしえの里めぐり」で、興福寺でコンサートをさせていただけることになり、お世話になります。
 
松尾:私も楽しみにしております。
 
歌枕:今後とも宜しくお願い致します。本日は貴重なお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。
 
 

松尾 法道(まつおほうどう)

1950年、長崎市・興福寺の庫裡で生まれる。16歳のとき、アメリカ・ルイジアナ州のアレキサンドリアにあるボルトン高校へ留学し、アレキサンドリア市名誉市民となる。海外生活の体験を経て、日本の美しい文化にあらためて目覚める。花園大学文学部仏教学科卒業後、黄檗宗大本山萬福寺修行道場に入堂。25歳にして、東明山興福寺第32代住職に就任。住職のかたわら、長崎女子商業高等学校非常勤講師、玉木女子短期大学非常勤講師を20年近く務める。現在、長崎市仏教連合会会長、日本礼道小笠原流長崎県支部会長。